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歴史探偵が迫った天草四郎の素顔!

昨日の歴史探偵で特集した天草四郎をまとめてみました。

島原の乱を特集しました。

その総大将は16歳だった天草四郎ですが、最新研究からその素顔に迫りました。

天草四郎と島原の乱

島原の乱の舞台となった原城跡では発掘調査が行われ、十字架などの遺物が見つかっています。

戦国時代、フランシスコ・ザビエルによって布教が行われ、キリシタンの数は30万人を超えました。

その後、徳川家康によって禁教令が出され、キリシタンへの弾圧が続きました。

また、島原を治めていた松倉氏は、飢饉のなかで厳しい年貢の取り立てを行っていました。

そんな時に天草四郎が現れ、市民たちは再び信仰を取り戻し、団結しました。

河合敦さんは、

「島原藩では飢饉にもかかわらず、年貢の取り立てが苛烈だった」

と説明し、島原の乱は領主の悪政に対する農民一揆の性格が重視されているそうです。

島原の乱の首謀者

島原の乱で天草四郎を裏切り幕府軍に投降した山田右衛門の記録があり、反乱の首謀者は天草四郎ではなく浪人たちでした。

主君を失った武士を指し、キリシタン大名時代への回帰を目指しました。

また、宣教師がお告げを残していて、該当する人物が天草四郎でした。

キリシタン史に詳しい川村信三さんは、

「小西行長の旧臣たちが中心になって天草四郎を担ぎ上げた」

などと語りました。

また、文献では手品に関する記述もあり、天草四郎は長崎県で外国人からテクニックを学んだのかもしれません。

そんな天草四郎は原城に入るも人々に姿を見せず、浪人たちはその存在を神格化させようとしていました。

キリシタン大名だった小西行長、有馬晴信の領地では教会があり、南蛮貿易も行われていたこともあって経済的に繁栄していました。

その後、禁教令などで旧臣たちは落ちぶれ、なんとかかつての栄光を取り戻そうと言う考えがありました。

関ヶ原の戦いに参加していた旧臣もいました。

天草四郎の実父は浪人のなかでも名の通った人物でした。

島原藩の信仰

島原藩では北部が仏教、南部でキリスト教が信仰されていました。

キリスト教徒たちは寺院や寺社を焼き払い、改宗を迫ることもありました。

仏教徒たちの一部は一揆勢に組み込まれ、キリシタンたちは結束力を高めるために銃弾を溶かして十字架を作りました。

時には人質を取っていたこともわかっています。

1638年1月1日、幕府軍が原城を攻めるも、一揆勢が撃退し、幕府軍総大将の板倉重昌をも討ち取ってみせました。

河合敦さんは、

「幕府軍につくか、一揆勢につくかを判断するのは村長で、信仰する宗教が違っても村長の判断が重視された」

などと説明しました。

裏切りを避けるために人質を取ったり、監視も行われました。

その結果、一揆に消極的だったキリシタンもいました。

さらに50代だった宮本武蔵は幕府側に属して参加したところ、石礫で足に重傷を負いました。

幕府軍による鎖国への道

幕府軍総大将となった松平信綱は一揆勢がいる原城の手前に二重の柵、海上には軍船を設置して包囲しました。

一方、一揆勢は長崎の出島にポルトガル商館があったことから、救援要請をしました。

しかし、幕府は友好関係にあったオランダを利用し、城を砲撃させました。

一揆勢の物資が減っていくなか、幕府軍は、

「異教徒であったのに無理にキリシタンにされているものは助命する」

と持ちかけました。

仏教徒たちは投降していき、1638年2月27日、幕府軍が総攻撃を開始し、翌日に陥落させました。

原城跡の発掘調査では、多数の遺骨が見つかっています。

なお、頭部は戦いで城外に曝されました。

島原の乱で幕府軍総大将を務めた松平信綱はオランダ船に砲撃させることで、ポルトガルの援軍が来ると期待していた一揆勢に心理的ダメージを与えました。

また、少年の天草四郎には投降を勧めることで揺さぶりをかけました。

投降する者が相次ぐも、少なくとも2万人は原城にとどまって戦いました。

信仰する宗教のためと言う人もいれば、人質を取られているのでどうしようもないといった事情もありました。

島原の乱の翌年、幕府はポルトガル船の来航を禁じ、鎖国体制ができあがりました。

Twitterでの歴史探偵で特集した天草四郎への反応

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