本ページはプロモーションが含まれています

人物 歴史

林修の今知りたいでしょが深掘りした徳川家康の運命を変えた8つの事件!

昨日の林修の今知りたいでしょでやってた徳川家康の運命を変えた8つの事件をまとめてみました。

家康と信長、信玄、秀吉たちの間に起きた運命を変えた8つの事件。

ピンチから天下統一へと進んだ究極の選択とは?

31歳の家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗しました。

武田軍は3万、家康軍は1万と圧倒的な兵力差がありましたが、家康はこの戦いで家臣との絆を深めました。

強すぎる武田信玄に大敗!その時、家康は!?

なにわ男子の長尾謙杜さんは、歴史研究家の市橋さんと浜松城へ向かいました。

家康は浜松城で信玄を待ち構えていました。

1万の徳川軍に対し武田軍は3万と圧倒的な兵力で攻めてきましたが、

急に進行方向を変えました。

市橋さんは、

「何人かはほっとしたと思うがほっとしなかったのが家康だと思う」

と話しました。

ここで家康軍は武田軍に襲いかかりましたが、武田軍は鉄壁の陣を敷いて待ち受けていました。

家康は大敗し、命からがら城に引き返しました。

家康が出撃したのは、

  • 大事な補給路を狙われたから
  • 武将としての評価が失墜するから

と言う2つの理由があると言われています。

健康科学大学の平山さんは、

「信玄の本当の攻撃目標は補給ルートの堀江城だった」

と指摘しています。

現地調査 家康を救った身代わりとおかゆ

三方ヶ原の戦いで敗北し絶体絶命だった家康の命を救ったのは、家康に忠誠を誓った家臣たちと家康を慕っていた民衆の行動でした。

なにわ男子の長尾さんは、歴史研究家の市橋さんと三方ヶ原の戦いで家康のために命を落とした人の碑にやってきました。

「夏目次郎左衛門吉信」

と書かれていました。

家臣の夏目が武田軍の目を引きつけているすきに家康は逃げ延びたと言われています。

また家康が逃げ延びることができた理由におかゆが関係しています。

武田軍から逃げる途中、とある農家に駆け込んだ家康はお粥を振る舞われ、後に家康はお礼としてその農家に

「小粥」

と言う名字を与えたと伝わっています。

浜松市の

「小豆餅」

と言う地名も逃げ帰る途中に寄った茶屋で、小豆餅を頬張ったと言う逸話からと伝わっています。

浜松にはこうした家康伝承が30近くあります。

家康は信玄に大敗した三方ヶ原の戦いで、家臣、民衆と結びつきを深め天下統一の足がかりを得ました。

家康も恐れた武田信玄の城攻めの極意

三方ヶ原の戦いの直前、家康の領地に進入した武田軍は、家康が誇っていた難攻不落の二俣城を攻め落としました。

なにわ男子の長尾さんは、歴史研究家の市橋さんと二俣城跡へ向かいました。

天竜川の水を汲むための櫓がありました。

城攻めで有効な手段は、城の水源を断つことです。

二俣城では水を川から汲み上げていると言う情報を突き止めた信玄は、櫓をある方法で破壊する作戦を実行しました。

武田軍は流れの速い天竜川にいかだを大量に流し、それをぶつけることで櫓を破壊しました。

家康を窮地に追い込んだ信玄でしたが、三方ヶ原の戦い直後に持病が悪化し亡くなったと言われています。

武田信玄から戦術などを学んだことも、家康の天下統一に役立ったと考えられます。

8歳で人質となった家康と吾妻鏡との出会い

家康は愛知県岡崎市で誕生しました。

家はとても弱い勢力で、巨大勢力の今川氏に送られ19歳まで人質として生活しました。

静岡市歴史博物館にある家康が身に着けていた甲冑

「紅糸威腹巻」

を紹介しました。

今川義元から与えられたと言われています。

家康は人質時代、預けられていた臨済寺の手習いの間で勉強し、知識を身につける選択をしました。

一番熱心に読み込み江戸時代の手本になったと言う

「吾妻鏡」

には、源頼朝の実績が書かれています。

家康は源頼朝を尊敬し、鎌倉幕府の政治を再現したいと考えました。

家康は高度な教育を受けたことで江戸時代の基礎を得ました。

桶狭間の戦い 最強の織田信長との対決

家康の主である今川義元は、約25000の大軍勢で尾張に攻め込みました。

織田信長の手により今川義元は討ち取られました。

家康は補給係でしたが、味方は逃げ去り孤立してしまいました。

自害しようと覚悟した家康は、生まれ故郷にある大樹寺に逃げ込みました。

自害しようと大樹寺に逃げ込んだ家康は

「厭離穢土」

「欣求浄土」

と言う言葉に出会い自害を思いとどまりました。

登誉天室上人に、

「今の乱れた世界を治めて安心して暮らせる世界を作っていくのが子孫としての使命」

と言う意味合いで言われたそうです。

この言葉は後に家康の旗印にも書かれます。

桶狭間の戦いで仏教の教えに出会ったことで、家康は平和な世を作ることを決意しました。

大樹寺

大樹寺には、家康が岡崎の人々から愛されている証拠が残っています。

大樹寺の門の先には、家康が生まれた岡崎城が見えます。

約400年前徳川家光が大改修し、岡崎城が見えるよう建物を配置しました。

岡崎では、

「ビスタライン」

を呼んでいます。

岡崎の人々は、この間に高い建物を建てずに眺望を守ってきました。

家康が信長に鞍替えした理由について、笠谷さんは、

「2歳で別れてから母の於大の方を思い、於大の方もずっと仕送りや手紙を送った」

「織田と同名を結ぶことで母親と再会できる」

と自身の考えを披露しました。

家康は織田との同盟によって、全国クラスの大名になることができました。

まさかの大苦戦!それでも一向一揆を鎮圧

家康は22歳の時に三河一向一揆に大苦戦しました。

一向一揆が起きる少し前に家康は、

「これからは一向宗の寺からも年貢をとりたてる」

と宣言しました。

当時一向宗の寺は年貢を免除されていて、役人でも立ち入れない特権を持っていました。

戦続きだった家康軍は財政難だったため、年貢を徴収しようとしましたが怒った信者が反乱しました。

本證寺

ビビる大木さんは、愛知県安城市の本證寺を取材しました。

本證寺は寺でありながら堀や土塁で城のように攻めにくい作りになっていました。

本證寺からは火縄銃の弾丸が発掘されました。

一向一揆側は鉄砲も多く持っていて、軍隊並みの戦力を持っていた集団でした。

また家康が信頼していた家臣には一向宗の信者がいて、一揆側に付いてしまいました。

家康は自ら出陣しますが、二発の弾丸を受けました。

裏切った家臣たちにも戦意を喪失する者が現れ、一揆勢は休戦を提案しました。

寺をもと通りにすると言う和議を結びました。

家康は、

「寺が立つ前は野原だったんだから野原にすればもと通りだと野原にしてしまった」

と言われています。

ただ、それ以上の命は殺めませんでした。

家康は裏切った多くの家来を許し、後で重要な役割を与えました。

許されたことで家臣たちは忠誠を誓いました。

林先生は、

「そのメンバーが抜けると家臣団が弱くなると言う実態もあって帰参を認めると言うことだったような気もする」

などと話しました。

家康は裏切った家臣を許したことで、天下統一に貢献する有能な部下を得ることが出来ました。

元康から家康への改名の謎

家康は生涯で3回名前を変えています。

14歳で竹千代から元信に、17歳頃に元信から元康に、22歳頃に家康となりました。

今川義元の祖父・清康から取っていましたが家康の

「家」

の字は誰から貰ったのでしょうか。

19代当主の徳川家広さんに徳川家ゆかりの品を保管する倉庫を案内してもらい、40代にわたる徳川家の繋がりが記録されている御系図を見せてもらいました。

平安時代の武士で源頼朝の先祖、源義家から

「家」

の字を貰ったと言われています。

義家以外にも家のつく名前が何人もいました。

家広さんは、

「義家公だけを意識したのではなく自分も源氏の流れに連なっていると言うこと」

などと話しました。

また家康には少なくとも子どもが16人いると言われています。

信康は織田信長、秀康は豊臣秀吉から字を貰っています。

天下統一に近づく頃には、源氏ゆかりの字を使っていました。

家康の

「家」

は源氏としての誇りを示すため源義家から貰った可能性があることがわかりました。

本能寺の変 光秀から逃げろ!

41歳の家康は三河・遠江・駿河の3か国を治める大名になっていましたが、本能寺の変で家康も明智光秀から命を狙われる大ピンチになっていました。

本能寺の変が起きたとき大阪の堺にいた家康は、三河に逃げ帰らないと命が危ない状況でした。

明智軍勢は京都付近にいて、軍勢は1万以上でした。

それ以上に一般の農民が行う落ち武者狩りが危険でした。

そんな状況で家康は3日で逃げ帰りました。

家康はわざわざ危険な山道を選びました。

新内眞衣さんが神君伊賀越えの舞台を調査しました。

家康は山道を安全に通るため、村人に案内を依頼しました。

案内人と合流できるまで竹やぶで身を隠していたと言われています。

案内人と合流した家康は京都方面へ向かいますが、木津川で同行者の穴山梅雪が落ち武者狩りで命を落としました。

茶屋四郎次郎は落ち武者狩りを避けるため先回りしてお金を配りました。

家康は2日で約70キロを踏破しました。

多羅尾氏が治める小川城に宿泊しました。

家康の逃走ルート

家康の逃走ルートを研究した郷土史家の谷和幸さんに、残り100キロを1日で踏破できる可能性がある戦国時代からあると言う戦国の道を案内して貰いました。

道の先には甲賀忍者を中心に組織された甲賀勤皇隊の隊長をしていた人物の末裔の屋敷がありました。

「清涼山 明王寺」

では徳川家の家紋が入った位牌のようなものが発見されました。

秀忠、家光、家綱の名前が刻まれていました。

家康と忍者との関係は現在調査中です。

伊賀忍者が家康を守った理由

忍者が家康を守った理由について、京都市歴史資料館の井上さんは、

「家康は信長にやられた伊賀の忍者の逃げ込み先になっている」

と指摘しました。

本能寺の変の直前に信長に攻撃された忍者たちを家康がかくまっていたそうです。

歴史学者の小和田さんは、

「天下統一を成し遂げる思いが神君伊賀越えで芽生えたのではないか」

などと指摘しました。

ついに決戦!究極の選択とは!?

豊臣秀吉は権力争いに次々と勝利し、天下統一に近づいていきました。

家康はその秀吉と直接対決することになります。

この小牧・長久手の戦いでは、家康軍約1万6千に対して秀吉軍は約10万でした。

家康が改造したと言う愛知県小牧市の小牧山城跡を調査しました。

1563年に織田信長によって造られた城で、小牧・長久手の戦いで徳川・織田連合軍によって大改修されました。

発掘調査の結果、かなり巨大な土塁と堀が確認されました。

秀吉から城を守れ!

秀吉を驚かせた家康の城改造ポイントを紹介しました。

家康は開戦直後から巨大な堀と土塁を作りました。

また兵士の出入り口である虎口は一般的に外から見えますが、改造した小牧山城は堀の底と繋がるように作られていました。

虎口から出入りしても外からは見えず、家康はこの構造を利用して奇襲を仕掛けました。

徳川美術館に保管されている徳川家康書状は遠方の家臣に勝ち戦の内容を伝えたものですが、専門家によるとかなり大げさに戦果を伝える内容になっています。

名古屋城調査研究センターの原さんは、

「当時の武将は味方のモチベーションを保つのが重要」

などと指摘しました。

秀吉のアプローチ

小牧・長久手の戦いの戦いのあと秀吉はトップの大名になりました。

自分と互角に戦った家康に家来になるよう要求しました。

家康は断りますが秀吉は諦めずあらゆる手段に出ました。

結婚していた妹を離婚させ家康に嫁がせたり、実の母親を人質として送るなど熱烈なアプローチを続けました。

秀吉は朝廷の官位を手に入れ始め、49歳で関白になりまし。

戦いから2年後、家康は家来になる決断をしました。

江戸のインフラを整備せよ!家康の作戦は?

秀吉の家臣となった家康は領地を三河から関東に変更せよと言う命令を下され、経済的に発展しやすい街づくりに挑戦しました。

当時の江戸は寂しい田舎町でしたが今より海が内陸に入り込んでいて、江戸城に直接船で人や物を運び込めました。

家康はこの利便性に注目しました。

日本考古学協会理事の谷口さんに家康のインフラ計画がわかるスポットを案内して貰いました。

家康のインフラ計画

1つ目は日本橋です。

日本橋下を流れる川は江戸城の堀の跡で、堀には水路の役割がありました。

江東区の小名木川も家康が作った水路で、千葉の塩を江戸に運ぶのが目的でした。

水路を張り巡らせた結果、江戸は水の都となりました。

首都高速は家康の作った水路を利用して作られました。

丸ノ内線も水路が関係しています。

四ツ谷駅付近は水路を線路を交差させる必要がありましたが、工事では水路下にトンネルを掘れず一部地上を走ることになりました。

堀工事で出た土は埋め立てに利用しました。

また家康は白い天守ににこだわりました。

笠谷さんは、

「富士山との相性にこだわったのではないか」

と指摘しました。

いざ関ケ原の戦いへ 家康直筆書状

関ヶ原の戦いで家康は石田三成に圧勝しますが、この結末は家康が1か月前から周到に用意したものでした。

最後のキーパーソンは石田三成です。

秀吉の死後、豊臣家の家臣たちは内部分裂を始めました。

石田三成が気に入らない武将は、家康について戦に発展していきました。

林先生と伊沢さんは19代当主の徳川家広さんに徳川家ゆかりの品を保管する倉庫を案内して貰い、関ヶ原の戦いで武将をまとめた2つのお宝を見せて貰いました。

家康の手紙

1つ目は戦いの1か月前から書いていたという家康の手紙でした。

藤堂高虎、黒田長政、細川忠興に宛てたもので、彼らの不安を払拭するため

「自分は江戸にいるけど必ず追いつくから大丈夫」

と短く伝えるものでした。

手紙のおかげか3人は大活躍しました。

家康は戦いの前からこうした手紙を全国の武将に送っていました。

石田三成は武将たちに手紙を送りましたが、家康とは対象的に長文のものでした。

7万人の兵士をまとめるため作った軍令書

2つ目のお宝は7万人の兵士をまとめるため作ったと言う軍令書でした。

兵士たちに向け

「喧嘩や口論はするな」

「放火、乱暴はするな」

など戦場の禁止事項を15にまとめたものです。

関ヶ原の戦いで家康が兵士に課したルールの中から

「長い柄の槍は使うな」

「戦が終わるまで勝手に帰るな」

など変わったものを紹介しました。

家康は兵士にルールを課すと同時に、商人や農民を守りたいと言う思いも込めていました。

家康は関ヶ原の戦いで人々の心を掴む手紙やルールを周到に準備して勝利することができたのかもしれません。

家康は1603年に征夷大将軍となり江戸幕府をスタートしました。

家康の遺した最後の言葉

「人の一生というものは重い荷物を背負って長い道のりを歩いていくようなものだ。急いではいけない」

「不自由が当たり前だと思えば不満を感じることはない。心に欲が出てきたら苦しかった時を思い出すと良い」

「自分の行動はしっかり反省し人の失敗を責めてはいけない」

など、林先生が伝えたい家康の遺した最後の言葉

「東照宮御遺訓」

を紹介しました。

最後の一文

「及ばざるは過ぎたるよりまされり」

について、

「攻めすぎずに待つ姿勢に基本にあった家康ならではだ」

と話しました。

Twitterでの林修の今知りたいでしょが特集した徳川家康の運命を変えた8つの事件への反応

-人物, 歴史
-, , , ,

© 2024 空手師範で現役整体師の館