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テレビ番組 歴史

歴史探偵は源実朝だった

歴史探偵は、3代将軍源実朝でした。

ゲストとして実朝を演じる柿澤勇人さんが出演しました。

3代将軍源実朝の若き鎌倉殿の挑戦

鎌倉幕府の公式記録、吾妻鏡によると、源実朝のもとを陳和卿という中国の人物が訪れ、前世はありがたい山の長老と言われたそうです。

お飾りの将軍とされていた実朝は、宋への渡航を考え、遣唐使船のような中国型の船舶を作ったそうです。

鎌倉の海岸には人工の港、和賀江島があり、鎌倉時代中頃、数百の船が行き交うほど賑わいを見せていました。

宋は、東アジア随一の大国で、陶磁器や宋銭などが輸入されていました。

和賀江島は、実朝の死後につくられましたが、実朝は宋との間に交易ルートを築き、莫大な富をもたらそうとしていたそうです。

源実朝が作った中国型の船舶

源実朝のもと、全長30m、船底から甲板までの高さ6mの船が作られたそうです。

河合敦さんは、

「日宋貿易を行っていたのは平氏で、平清盛によって貨幣経済ができつつあった」

と話します。

巨大な船で宋との間に交易ルートを構築しようとしていたことから、相当の人数が関わっていたはずで、実朝には人望があったと言えるそうです。

源実朝の造船計画

由比ヶ浜は遠浅の海で、船の進水には適しません。

吾妻鏡によると、源実朝は由比浦に船を浮かべようとしたのが、健保5年4月17日とされます。

潮の満ち干が大きくなる時期にあたり、満潮時であれば海は深くなります。

実朝は、船の喫水を確保できる状況で進水式を行った可能性がありますが、吾妻鏡には浮かべられなかったとの記載があります。

実朝の造船計画を指揮したのが陳和卿で、東大寺の大仏再建にも関わりましたが、河合敦さんによると、造船となると勝手が違ったのではないかと言うことです。

そんな陳和卿は、実朝の初対面の際、

「あなたは医王山の長老の生まれ変わりで、私は弟子でした」

と言ったそうです。

医王山は仏教の聖地です。

実朝は、その数年前に同じ夢を見ていて、信仰心から陳和卿を信頼した考えられます

柿澤勇人さんは、実朝が登場した放送の夜、夢に三谷幸喜が出てきて、

「僕の脚本をちゃんと読んでますか」

とダメ出しされましたが、その後に三谷からメッセージが来て、

「大丈夫です」

と記されていたそうです。

なお、源実朝は和歌に通暁し、百人一首にも採用されています。

藤原定家を通じて後鳥羽上皇とも交流し、皇子を迎え入れようとしていました。

3代将軍源実朝暗殺事件の真相

建保7年1月27日夜、源実朝は鶴岡八幡宮を参拝した帰り道、公暁に暗殺されました。

公暁は実朝の兄、頼家の息子で、父の殺害に実朝が関与していたと思っていました。

フィクサーとして挙げられるのが北条義時で、警護責任者を任されていましたが、吾妻鏡によると白い犬の幻影を見て帰宅したそうです。

しかし、同時代の歴史書愚管抄には、実朝が中門で待機するよう義時に命じていて、実朝の指示がなければ護衛はできたはずです。

義時でないとするなら、公暁の乳母夫である三浦義村なのでしょうか。

実朝を暗殺した公暁を御家人たちが将軍として祭り上げるはずがなく、論拠に乏しいそうです。

公暁の単独犯

元警部の秋山博康さんは、公暁の単独犯を疑い、吾妻鏡で公暁は大石段にて実朝の御首を掲げたとなっています。

人々の注目を集めることを目的とし、秋山さんは、

「現代で言うところの劇場型犯罪」

と話します。

公暁は、実朝の兄で二代将軍である頼家の子で、実朝には実子がいなかったことから、次期将軍は自分だと信じていましたが、実朝は後鳥羽上皇の皇子に将軍の座を譲ることを決めました。

皇族の血筋が続くことを考えれば、公暁が将軍になるチャンスは水泡に帰したわけです。

坂井孝一さんは、

「親王がくだる前に実朝を排除し、公暁が座る。これがギリギリの可能性」

と話します。

Twitterでの歴史探偵で特集した源実朝への反応

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